言葉の水たまり

日々の生活の中で浮かんだ何気ない言葉を、消えてしまう前に掬い上げて、時には丁寧に、時には無造作に溜めておく、そんなブログです。

最近気づいたこと

タイトルの通り。短いコラムです。

最近少しずつ時間と心の余裕ができてきたので、色々と文章を書き起こしてみたりしているんですが、つくづく結論を出すのが苦手だなあ、と。

問題提起は大好きで、あれもこれもトピックとして挙げたがるんですけど、その結論がほとんど出ない。

「結論は人それぞれ。生きていればそのうち分かるっしょ。」みたいな楽観的(?)な考えになってしまいます。

個人的には、読んだ人が「この文章を読んでどう感じたか」が全てなんじゃないかなあ、と。

私は私なりに自分で書いた文章を読んで思うところはあるし、他の人はきっと別のことを感じる。だから結論なんてあってないようなもの、みたいな。

だから小説が好きなのかもしれませんね。小説ってそもそも直接的な問題提起じゃないので、物語中でその問題を解決しなくても何の問題もないんです。解釈は読者に委ねますよー、って感じで。

 

というわけで、結論のない文章を心がけていこうかな、と思います。それはそれで話のたたみ方が難しいけれど。

それでは、また。

自分らしさってなんだろう

私を私と定義づけるものって一体なんだろう、って最近思います。

容姿?性格?名前?血縁?経験?

そのどれか1つが重要なのでしょうか。それとも、そのどれか1つでも欠けたらその人とは言えないのでしょうか。

今回は、そんなお話です。

 

 

自分らしく生きる、とはよく言いますが、自分らしいってそもそも一体なんだろう。

改めて考えるとよく分かんなかったりします。だって生まれた時から当たり前に自分は自分だし。

家族などにも言えることですが、物心つく前から一緒だった物とか人、そういった自分にとって身近すぎるものって、案外考えを巡らせたことがない、なんてことがよくあります。

何かきっかけがあって初めて、はたと思い至る。そんなものなのかもしれません。

 

 

まず最初に、極端な例を挙げてみましょう。

二重人格ってあるじゃないですか。1人の中に2つの異なる人格があったり、急に性格が豹変したりとか。

この場合、一体どちらが”自分”と言えるのでしょうか。

どちらかが本物の自分で、もう1つの人格は偽物の自分なのか。

それとも、2人いるからこそ自分と呼べるのか。

そもそも、人格という括りがなかなか曖昧なものなので、ハッキリとこうである!とはなかなか言えないと思います。

当人の思っている形が、その人にとっての真実なのでしょう。

 

今度はもっと身近な例を挙げてみます。本当の自分はとても感情豊かでお喋りなのに、人前に出てしまうとどうしても上手に喋れない人がいたとします。

自分自身は、今日あったことを日記に面白おかしく書き起こしてみたり、ぬいぐるみに語りかけてみたり、お喋りであると思っているかもしれません。

でも、周りの人からしたらその人のイメージは”物静かな人”です。

この場合、はたして本当の自分は1人でいるときの自分だ、って言えるでしょうか。

そもそも、” お喋りな自分”を人前で出すことができない時点で、”自分がお喋りである”と自信を持って言えるのでしょうか。

 

周りが思っている自分のイメージと、本当の自分、これがかけ離れてしまっていると感じることはままあることかもしれません。

たとえどんなに”自分はこういう人間だ”と思っていても、周りがそう思っていないと段々どちらが本当か分からなくなってきます。

これは、理想の自分と現実の自分のギャップにも置き換えられるかもしれません。

どんなに、本当の自分はこんななのに!と言っても、行動が伴っていなければ周りにそのイメージはつきませんよね。

周りに蓄積された”この人はこういう人だ”っていう認識を振り払って、本当の自分は理想の方なんだ!と胸を張って言えるでしょうか。

自分らしさを形作るのって、きっと自分1人だけじゃないんです。周りの環境や、周囲の先入観、そんな色んなものに左右されて、影響されて、形作られているんです。

 

 

自分探しの旅って、よく言うじゃないですか。遠い土地に、1人でふらっと行ってしまうやつ。

それに対して「自分なんて遠い土地で見つかるわけがない。」「自分はここにいるじゃないか。」「ただの現実逃避じゃないのか。」なんて揶揄されたりもします。

でも、私はこう思います。

周囲の人は自分のことを全く知らない。自分もその土地のことを全く知らない。そんな真っ白な環境で、自分が何を感じ、どう行動するのか。

それを知るのが、所謂自分探しの旅ってやつなんじゃないか、って。

 

どうしても日々の生活の中で、”この人はこういう人だ”っていう周囲の思いや、”私はこういう人だ”という自分の思いは生まれてしまいます。

無意識のうちに、そんな思い込みに囚われて”自分らしさ”を演じてしまっているのかもしれません。

その方が、日々を生きて行く上ではきっと楽ちんですし。

なんとなく息苦しいな、って思っている人は、その先入観に囚われすぎているのかもしれません。

何か、自分を演じてしまっている部分があるのかもしれません。

別に遠い土地に行かなくても良いです。

ちょっと自分に語りかけて、素直な気持ちを感じてみましょう。

そこに向き合ってみると、もしかしたら新たな発見があるかもしれません。

あるいは、何も見えないかもしれませんが。それはそれで、自分らしさってことで。

それでは、また。

 

選択肢

今日は久しぶりに1日何も予定がなく、お天気も良かったので、部屋の掃除をしたり布団を干したり、身の回りのことをしていました。

掃除や洗濯したあとって、気分が良いですよね。それって「綺麗になる」だけでなく「自分が有意義に時間を使えた」っていう心地よさもあると思います。

今回はそんなお話です。

 

 

掃除も洗濯も、極端に言ってしまえば、しなくても生きていけます。

まあ、この辺は人の感覚によりますが。部屋が汚くても全然平気な人もいれば、ちょっとでも汚いと我慢ならない人もいるので。(私は多少汚くても平気な方です)

それでも洗濯をする、掃除をする、って選択肢を選ぶのは「より良い生活環境作りのために頑張る」ってことだと思うんです。

だから終わった後は「綺麗になった!」という結果だけでなく、「頑張った!」っていう過程も心地よさに含まれている気がします。

 

疲れてしまって、何もしたくなくなる時ってありますよね。
そんな時に、何もせずぼんやりと過ごしたり、好きなことだけをやったりするのは、とっても大切な心の栄養です。

でも、ずーっと好きなことだけを繰り返していると、段々と慣れてしまうことがあります。

慣れると自分の中での価値は少しずつ下がって、楽しかったはずのことが、なんだか退屈に感じられたりしてしまいます。

そんな時にちょっとした発見や新しい刺激を与えるのは、自分が積極的に選ばない選択肢の先にあるかもしれません。

 

退屈だな、って思った時は、あえてうんと疲れることをやってみる。

普段だったら嫌だなって思うことを、頑張ってやってみる。

そうすると「頑張った!」っていう達成感から、それまで繰り返していたことがもっと楽しく感じられるようになる、かもしれません。

楽しかったはずのことが、なんだか退屈だなと感じることがあったら、試してみてください。

楽しさが、息を吹き返すかもしれませんよ。

それでは、また。

 

 

 

 

 

気まぐれな言葉

随分と更新が滞ってしまったので、ここら辺で壁打ちを1つ。

ここ最近、自分の人生を揺るがす目まぐるしい出来事がたくさん起きていて、正直心が置いてけぼりを食らっています。

思ったことはたくさんあるのに、それが言葉になる前に消えてしまっている感覚。

実際、下書きを見るとここ数ヶ月分の思いが走り書きのようにたくさん溜まっています。単語の箇条書きだけだったり、タイトルだけだったり。中には、もはや自分でも解読できない謎の言葉の羅列も。笑

なんとなくこんなことが言いたいんだけど、形にするほどのエネルギーが足りなくて、放置されてしまっている。ぼーっと眺めていて、もったいないなー、と思います。でも、なかなか手をつける気にならない。

部屋の片付けとかと同じですね。笑

 

私にとって文章を書くことは、結構エネルギーのいることです。

心に余裕がないと、ふつふつと浮かんできた思いを拾い上げて言葉にすることが、なかなかできません。

ただ、気まぐれのように突然、ぽんぽん言葉が溢れてくる時があります。

今まであんなに唸っていても出てこなかったのに。

そんな時が、私にとっての文章を書くタイミング、 言葉を形にするタイミングだと思っています。

要は、コツコツ積み重ねていくことが苦手なだけなんですけどね。

まだまだ日々の中に余裕はありませんが、言葉が溢れてくるタイミングを逃さず、文章を残すことはずっと続けていきたいな。

それでは、また。

あなたは泣くことが好きですか?

こんなこと急に聞かれたら、なんて答えるでしょうか。きっと、考えたこともないですよね。

「泣くのは嫌なこと、恥ずかしいこと」ってイメージが、なんとなくあるかもしれません。

でも、私は泣くことが好きです。

泣くっていうのは自分の心が物理的に現れる、数少ない現象だと思うんです。

どんなにつらくても、どんなに嬉しくても、やっぱり人の心って見えないんですよ。

他人にはもちろん、自分にも。

 

泣きたいわけじゃないのに、不思議と涙が溢れるってことありますよね。

これって、何より正直な心の反応だと思うんです。

笑顔って、案外適当に作れます。内心何も思っていなくても、とりあえず口角と目尻を上げておけば、楽しそうな自分が作れます。

でも涙って、本当に心が動いた時しか出てこないと思うんです。

私は、映画を見たり、本を読んでいる時に泣いてしまうことが多いのですが、涙が溢れた時って心と体の反応がぴったり同じなんです。それがすごく心地良い。

あ、自分は今、悲しいから泣いているんだな。感動したから泣いているんだな。そんな風に、不思議と自分の涙から自分の心を感じることができます。

 

あんまり感情表現が得意じゃない人って、いますよね。心では本当に嬉しい、と思っているのに、なんだかそれを上手く表現できない。私もそうです。

「うわあ!すごい!嬉しい!」って感動を素直に表せる人って、とっても素敵だと思います。でも、それができない人もいる。

そんな人でも、泣いている時だけは自分に正直になれると思うんです。  

 

仕事、勉強、映画、小説。きっかけはなんでも良いです。

もし、涙を無理やり抑え込んでしまっているのなら、一旦塞き止めている仕切りを外して、流してみちゃいましょう。

案外、心地良かったりするものですよ。

 

もちろん、泣くのは人前じゃなくて良いんです。

感動できるものに出会って、ひっそりと涙を流す。

つらいことにぶつかって、お風呂の中で思いっきり泣いてみる。

それって、とっても素敵なことだと思います。

それでは、また。

まっすぐ進むこと、つまづくこと

物事がうまくいってる時って、前だけを見ていれば良いんですよね。

でも、うまくいかなくなった時、初めて辺りを見渡したり、後ろを振り返ったりする気がします。

今回はそんなお話です。

 

何事もとんとん拍子に進むのは、とっても幸せなことです。つまづくことはやっぱりつらいし、出来ることならうまくいって欲しい。

でも、つまづいたりすることも決して無駄じゃない、と私は思っています。耳障りのいい、ありきたりな表現かもしれませんが。

まっすぐまっすぐ前に進んでる人は、つまづいてしまった自分の知らない、もっと先の道を知ってるかもしれません。

でも、つまづいた人は、ぐんぐん進んでいく人達がスーっと通り過ぎて見落としてしまったものを、見つけることができるかもしれないんです。

 

 

とある作品のお話です。

 

 ある旅人が、大切なものを求めて旅に出ました。旅に出る時、旅人は師に言われました。

「決して道を見失ってはならないよ。一度でも間違えてしまったら、もう二度とおまえの求めるものは見つからなくなってしまうから。」

しかし、不幸なことに旅人は道を見失ってしまいました。

力なくうつむいて途方に暮れる旅人…

しかし、再び顔を上げた彼の眼前に広がっていたのはーー

かつて旅人が求めていたもの以上の、ずっと素晴らしい世界だったのでした。

 

 失敗や寄り道をしなくちゃ見つからないものもあるっていう、私の大好きなお話です。

もしかしたら、ピンときた方もいるかもしれませんね。

 

 

私がこんなことを思うのも、すごくたくさんつまづいてきたからです。

多分、私の人生がもっともっとうまくいってたら、こんなこと思わなかったと思います。こうして言葉を溜めることの楽しさに気づかず、このブログも生まれなかったと思います。

じゃあ、私はこれで良いや、って思うんです。

色んな後悔や、こうだったら良かったのにってことは、たくさんあります。でも、うまくいかなかったからこそ、今の私がある。それだけで、たくさん失敗して、落ち込んで、悩んできた意味があると思うんです。

まあ、「今まさに悩んでる!」って時は、なかなかそんなこと思えないんですけどね。

だから、誰かが代わりに言ってあげるんです。

今、落ち込んでる人、つまづいてる人、悩んでる人。大丈夫だよ。

 

失敗なんて誰だってしたくないし、何事もうまくいってほしいと思うのが当たり前。

どっちが幸せ、どっちが良い。正解はありません。それはきっと人によって違うだろうし。

でも、つまづいた時、前に進んでる人を見て焦る必要はないんです。

そのつまづきや、寄り道が、自分にとってかけがえのないものになるかもしれない。

前に進むだけが人生じゃないよ。

それでは、また。

 

 

満腹が怖かったお話

今日はお仕事終わりに、外でご飯を食べてきました。

ちょっと入り組んだ山奥にある老舗で、入り口の門の暖簾から始まり、連なる石畳を歩いていくと、食事処の窓からは真っ赤な鯉の泳ぐ池が見える、なんて趣のあるところでした。野球選手の松井さんや、ホンジャマカ石ちゃんといった著名人も数々ご来店しているそうです。すごい。

カツが有名なお店らしく、私は「ミックスフライ定食」を注文しました。海老フライやホタテ、カニのフライなどが堪能でき、とっても贅沢で美味しかったです。こうやって1日の終わりに美味しいものを食べるのは、何より幸せなことですね。

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さて、食べながらふと思い出したことがあったので、今回はそのお話をしたいと思います。満腹感と共に押し寄せてくる、睡魔と戦いながら。

 

 

今、私はとっても満腹です。ミックスフライ定食のボリュームが予想以上だったので、ちょっと苦しいくらい。

じゃあ、この満腹感って幸せなことだと思いますか?

 

もちろん、まっすぐに考えれば幸せでしょう。実際、美味しいものをお腹いっぱい食べることができて、私は今とっても幸せです。

でも、ちょっと考え方を捻じ曲げてみてください。

満腹って、”これ以上満たされることはない”とも言えませんか。

 

美味しいものを食べて、お腹いっぱい。幸せ。

でも、裏を返すともうこれ以上美味しいものを食べれないんです。美味しいものを食べても、幸せだと感じられない状態なんです。

これって、もしかしたら結構怖いことなのかもしれない、と思います。

 

 

ずっと昔、毎日がつらくて仕方がない時期がありました。

つらい、と言ってしまうと、何か嫌なことがあったのか、誰かにいじめられでもしたのか、というニュアンスになってしまいますね。

その頃、決して何か嫌なことがあったわけではないです。むしろ、何もなかったんです。

生きる気力も、楽しみも。

本当は、なかったのではなく見ようとしていなかっただけなのですが、それはまた別の機会に。今回は割愛します。

とにかく、何も楽しいと思えず、何もやりたいと思えず、それでもただ日々が流れていくことが、つらくて仕方がありませんでした。

そんな時、唯一生きる楽しみを与えてくれていたもの。それが、食事です。

ご飯を食べる、ということは、無条件で生き物を満たしてくれます。心も、体も。

何が楽しいのか、とか小難しいことを考える必要もなく、ただ美味しいから幸せなんです。生物の本能です。

そうやって食欲を糧として生きていた頃、一番怖かったもの。

それが、満腹です。

満腹になってしまったその瞬間、自分が「楽しい」と思えることがなくなってしまう。それが、怖くて仕方がありませんでした。

食べることは好きだけど、お腹いっぱいまでは絶対に食べない。食べることができなくなってしまうから。

そんな、変てこな生き方をしていた時期がありました。

 

今思い出すと、なんだそりゃって笑い話ですね。でも、当時の私は真剣でした。

ものの見方は、ネガティブに捉えようとすればいくらでもできます。そして、逆もまた然り。

ここからもう少し話を広げることもできるのですが、ちょっと長くなってしまいそうなのでこの辺りで。こんな捻くれたものの見方もあるんだぞ、っていうところで今回の話は終わりにしておきます。

 

 

今でもごくたまに、満腹が怖くなることがあります。

それでも平気なのは、今は幸せを与えてくれる人たちが、いっぱいいるからかな。

それでは、また。