言葉の水たまり

日々の生活の中で浮かんだ何気ない言葉を、消えてしまう前に掬い上げて、時には丁寧に、時には無造作に溜めておく、そんなブログです。

自分らしさってなんだろう

私を私と定義づけるものって一体なんだろう、って最近思います。

容姿?性格?名前?血縁?経験?

そのどれか1つが重要なのでしょうか。それとも、そのどれか1つでも欠けたらその人とは言えないのでしょうか。

今回は、そんなお話です。

 

 

自分らしく生きる、とはよく言いますが、自分らしいってそもそも一体なんだろう。

改めて考えるとよく分かんなかったりします。だって生まれた時から当たり前に自分は自分だし。

家族などにも言えることですが、物心つく前から一緒だった物とか人、そういった自分にとって身近すぎるものって、案外考えを巡らせたことがない、なんてことがよくあります。

何かきっかけがあって初めて、はたと思い至る。そんなものなのかもしれません。

 

 

まず最初に、極端な例を挙げてみましょう。

二重人格ってあるじゃないですか。1人の中に2つの異なる人格があったり、急に性格が豹変したりとか。

この場合、一体どちらが”自分”と言えるのでしょうか。

どちらかが本物の自分で、もう1つの人格は偽物の自分なのか。

それとも、2人いるからこそ自分と呼べるのか。

そもそも、人格という括りがなかなか曖昧なものなので、ハッキリとこうである!とはなかなか言えないと思います。

当人の思っている形が、その人にとっての真実なのでしょう。

 

今度はもっと身近な例を挙げてみます。本当の自分はとても感情豊かでお喋りなのに、人前に出てしまうとどうしても上手に喋れない人がいたとします。

自分自身は、今日あったことを日記に面白おかしく書き起こしてみたり、ぬいぐるみに語りかけてみたり、お喋りであると思っているかもしれません。

でも、周りの人からしたらその人のイメージは”物静かな人”です。

この場合、はたして本当の自分は1人でいるときの自分だ、って言えるでしょうか。

そもそも、” お喋りな自分”を人前で出すことができない時点で、”自分がお喋りである”と自信を持って言えるのでしょうか。

 

周りが思っている自分のイメージと、本当の自分、これがかけ離れてしまっていると感じることはままあることかもしれません。

たとえどんなに”自分はこういう人間だ”と思っていても、周りがそう思っていないと段々どちらが本当か分からなくなってきます。

これは、理想の自分と現実の自分のギャップにも置き換えられるかもしれません。

どんなに、本当の自分はこんななのに!と言っても、行動が伴っていなければ周りにそのイメージはつきませんよね。

周りに蓄積された”この人はこういう人だ”っていう認識を振り払って、本当の自分は理想の方なんだ!と胸を張って言えるでしょうか。

自分らしさを形作るのって、きっと自分1人だけじゃないんです。周りの環境や、周囲の先入観、そんな色んなものに左右されて、影響されて、形作られているんです。

 

 

自分探しの旅って、よく言うじゃないですか。遠い土地に、1人でふらっと行ってしまうやつ。

それに対して「自分なんて遠い土地で見つかるわけがない。」「自分はここにいるじゃないか。」「ただの現実逃避じゃないのか。」なんて揶揄されたりもします。

でも、私はこう思います。

周囲の人は自分のことを全く知らない。自分もその土地のことを全く知らない。そんな真っ白な環境で、自分が何を感じ、どう行動するのか。

それを知るのが、所謂自分探しの旅ってやつなんじゃないか、って。

 

どうしても日々の生活の中で、”この人はこういう人だ”っていう周囲の思いや、”私はこういう人だ”という自分の思いは生まれてしまいます。

無意識のうちに、そんな思い込みに囚われて”自分らしさ”を演じてしまっているのかもしれません。

その方が、日々を生きて行く上ではきっと楽ちんですし。

なんとなく息苦しいな、って思っている人は、その先入観に囚われすぎているのかもしれません。

何か、自分を演じてしまっている部分があるのかもしれません。

別に遠い土地に行かなくても良いです。

ちょっと自分に語りかけて、素直な気持ちを感じてみましょう。

そこに向き合ってみると、もしかしたら新たな発見があるかもしれません。

あるいは、何も見えないかもしれませんが。それはそれで、自分らしさってことで。

それでは、また。